知性もあらゆる物と同じく消耗する。学問はその栄養である。知性を養い、かつそれを消耗する。by ラ・ブリュイエール
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La couleur
毎週、金曜日に文章のレトリックについて学ぶ授業を受けている。色々な作家さんの文章の例を取りつつ、「漸層法」とか「類義累積」とか、そういった技法を学んでいる。
最近はあまり創作をしないからなんとも言えないけれど、授業でレトリックの技法を学んでいると、そういえばなんとなくそんな書き方をしていたなあ、と思えることが何度もあって、自分が<なんとなく>やっていたことを、理論付けて解説してもらえてとても楽しい。授業取って正解だったなって思う。ただ、自分のなかにある<なんとなく>の感覚とレトリックは、似ているようで根本的には違うものだと思う。
その<なんとなく>の感覚って文章を綴る人それぞれ違うもので、それが作家の<色>なのかなと思う。レトリックのようなものは<型>で、ある程度の型なら磨けばそれなりのものになると思うけれど、<色>はその人にしか持ちえないもののように思う。
その<色>がどんな色になるかは、きっとその人の経験に依る。すぐに文章の表現に直結するものなら、それまで読んできた本の種類。<白>い本を好んで多く読んで、たまに<青>い本を読んで、それで文章を書けば<水色>の文が綴られていくのかなと思う。その<水色>も人によってさまざまで、<水色>というよりも<天色>に近いのかな、とか。
あとは、私が綴る文章は何<色>なんだろう。赤系統なのか、青系統なのか。私の元になった好きな作家さんの文章は何<色>なんだろう、とか。
そんなことを考えるのは、何かとても楽しい。別に何か生み出しているわけではなく、有益なこととは思えないけれど、なんだか楽しい。
授業が終わった電車のなかで、そんなことを考えながら帰りました。
最近はあまり創作をしないからなんとも言えないけれど、授業でレトリックの技法を学んでいると、そういえばなんとなくそんな書き方をしていたなあ、と思えることが何度もあって、自分が<なんとなく>やっていたことを、理論付けて解説してもらえてとても楽しい。授業取って正解だったなって思う。ただ、自分のなかにある<なんとなく>の感覚とレトリックは、似ているようで根本的には違うものだと思う。
その<なんとなく>の感覚って文章を綴る人それぞれ違うもので、それが作家の<色>なのかなと思う。レトリックのようなものは<型>で、ある程度の型なら磨けばそれなりのものになると思うけれど、<色>はその人にしか持ちえないもののように思う。
その<色>がどんな色になるかは、きっとその人の経験に依る。すぐに文章の表現に直結するものなら、それまで読んできた本の種類。<白>い本を好んで多く読んで、たまに<青>い本を読んで、それで文章を書けば<水色>の文が綴られていくのかなと思う。その<水色>も人によってさまざまで、<水色>というよりも<天色>に近いのかな、とか。
あとは、私が綴る文章は何<色>なんだろう。赤系統なのか、青系統なのか。私の元になった好きな作家さんの文章は何<色>なんだろう、とか。
そんなことを考えるのは、何かとても楽しい。別に何か生み出しているわけではなく、有益なこととは思えないけれど、なんだか楽しい。
授業が終わった電車のなかで、そんなことを考えながら帰りました。
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