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知性もあらゆる物と同じく消耗する。学問はその栄養である。知性を養い、かつそれを消耗する。by ラ・ブリュイエール

   
カテゴリー「日記」の記事一覧
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 光が、欲しい。どんな色の光でもいい。私を照らしてくれる光。

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・・・つづきはこちら

 3月末くらいから、余裕がある時はお弁当を持って行っている。
 あんまり頑張りすぎると段々疲れて作るのが面倒になってしまうから、いくつか自分の中にルールを設定してそれを守るように心がけている。

1.10時以降に大学に行く時のみ持っていく。
→朝早く起きると大変だから。

2.お弁当に詰めるもののうち、必ずひとつは前日に用意する。
→朝は時間がないから前もって作っておくことで、朝のどたばたを回避!

3.たまには冷凍食品を。
→手抜きも大事。

 など。
 一応自分ルールを守っているので、2カ月くらい頑張って作り続けていたりする。新しい料理にも挑戦したりもしているし、ちょっとずつ作れる料理が増えていってるような……気がする。
 作っていて思ったのは、洋食よりも和食のほうが作りやすい。だし、醤油、白醤油、みりん、お酒、砂糖、塩の組み合わせ次第で味が変わって、作っていて楽しい。家で普通に料理をする時は洋食のほうが作りやすいんだけど、どうしてかな。うーん。みょーん。
 今挑戦してみたいのは、豚の角煮。今度の日曜日にでも作れたらいいなと思っているけれど、どうなるやら。

 おわり。

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 起きていると、色々なものが目に入ってきたり聞こえてきたりする。目まぐるしいくらいに情報がたくさんあって、そのなかには受け取りたくないのに受け取らなければいけないもの、誤って受け取ってしまうものがいくつかある。
 たくさんの情報を自分のなかで上手く取捨選択できれば問題ないんだろうけれど、それができなくて惑わされてしまって……。そういう時、ぎゅっと目をつむって耳を塞いで部屋の隅でじっとしていたくなる。でも、できないからベッドのなかで丸くなる。そうすると眠りに落ちて……、眠りに落ちるともうずっと眠っていたくなる。
 眠りのなかにいると、揺籠で眠っているようなそんな気がしてとても心地がいいから、起きてしまうと「ああ」ってなる。ああ、目覚めてしまったって。また、情報のなかに入っていかなきゃいけないって。
 そういう時の絶望感はほんとにひどくて、一日何もせずにベッドのなかで過ごしたくなる。

 そんなことを感じる時期。

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 昔はよく意味もなく日記で欲しい物を列挙していた。
 今読み返してみると、ああこんなものが欲しかったんだなあ、としみじみと思うものだったりする。これ絶対要らないだろ、と苦笑してみたりもして。

 数年したらもしかしたら面白いかもしれないので、久々に意味もなく欲しい物を並べ立ててみる。

・ディフューザー
・春物の洋服
・ヒールのある黒い靴
・お弁当箱
・ケラスターゼのシャンプーとトリートメント
・橋本紡『今日のごちそう』
・杉山登志朗『発達障害のいま』
・MacBook Air
・傘
・1人用のティーポッド
・マリアージュフレージュのキャラメルティー
・家
・ポーチ
・ペンケース
・シャープペン(0.3)

 とりあえず、ぱっと思いつくのはこのくらい。いくつかあまり現実的じゃないものも入っているけれど、欲しい! という気持ちは全部に共通している。
 物欲は尽きないもので、たぶん欲しい物がなくなる日は来ない。たとえ、今欲しい物がすべて満たされたとしても、今度は別の大きな欲しい物が出てくる。それをずっと繰り返して、あれ欲しいこれ欲しいと求め続け、どんどん欲は肥大化していく。

 適度に欲しい物があって、色々な事情からそれが手に入らない状況って大切なのかなって思う。欲しくて手に入らないからそれを手に入れるために頑張る過程が大事というか……。
 その過程の長さの分だけ、物の価値も高くなるのだと思う。

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「僕は自分の小説の中に自分を描くことはしない。それは身を削る恐ろしい行為だ」

 好きな作家さんが、講演会の時に言っていた。
 その当時はよく文章を書いていて、自分が書いているものは拙いものだけれども、それでも的を射た表現だなと共感した覚えがある。

 思い返してみると、高校時代に書いた話の中にほんのちょっとだけ自分の一部を注いだ人物を登場させたことがあった。

 ――この場面に私がいたら、何を思ってどう行動するだろう。

 文章を綴る瞬間そう考えて、自分をじっくりと見つめる。普段は見ようとしないように心がけてる部分も、この瞬間は意図せず見つめてしまう。自分をゆっくりと解体していく作業、とでもいうのだろうか。ひとつの文を綴るごとに、自分の一部を剥がしていく。
 書き終えたあとは、「終わった」という達成感よりも、熾烈な争いを終えたあとの恍惚感と、同時に力を使い果たしたあとの虚脱感がじんわりと底に渦巻いて、運動をした訳でもないのにとても疲れた覚えがある。

 だめだ。もう何もできない。何もしたくない。

 今考えてみると、たしかに身を削っていたと思う。心のいたるところに傷ができて、血が流れて、痛かった。

 そういえば、似た感覚をかつてカウンセリングを受けている時にも感じたことがある。あれも、自分を削る、解体していく作業だった。
 基本的に先生は何もしない。促すだけ。自分のことを上手く語れずにいると、どうしてそんなことをしたの、と問う。問われて考えて自分の中を見て、見たくなかった自分を引き出す。自分を削る。

 カウンセリングをして良かったという人と、受けなければ良かったという人がいるけれど、それは自分の削り方に違いがあったからじゃないかと思う。もしくは、削ったあとの痛みに堪えられたか堪えられなかったかの違い。

 カウンセリングも、文章で自分を描くことも、実際にやってみないと結果がどうなるのかわからない。安易な気持ちでやってはいけない。
 そんなことを思う。

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プロフィール
HN:
累華
年齢:
35
性別:
女性
誕生日:
1990/10/06
職業:
大学生
趣味:
散歩 読書 映画や芸術鑑賞
自己紹介:
都内の大学に通う大学二年生。心理学専攻。
将来は作家になりたいので、創作の肥やしにするために色んなものを聞いたり見たり読んだりして経験値を増やそうと奮闘する日々を送っている。
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